2012年10月8日月曜日

講談「チェルノブイリの祈り」


実はこの講談を、私は10年前に福岡で聴いているのだ。


当時、遠く感じていたチェルノブイリが、

普通に生活していた、消防士の妻である、ひとりの女性の心情を通して、
「なんの為に生きるのか」
「何が大切なのか」
切実な「問い」を投げかけつつ、

背後にある「原子力」の問題、
個人が到底太刀打ちできない大きな力の恐怖、
「社会」の価値観・・・

最後のシーンで、
予告のような「玄海原子力発電所で事故発生」
の彼女の声と、サイレンに、
戦慄したのを覚えている。


とはいえ、まさか日本で今回のような事故が起こるとは思っていなかった。


10年経って・・
今回、池田町での講談で、
最後の部分は、
「2012年、福島第一原子力発電所で事故発生・・」
ともう、未来のことでなく、
去年のこと、「現実」のこととなっていてた。


私は、講談を通して「悲劇」を知っていたのに。

福島では、いまだにたくさんの犠牲を強いているにもかかわらず、
同じように「未来」がどうなってゆくのか、
見いだせないままでいる。




講談が会わって、
福島から移住してきた方の「訴え」は胸に詰まった。
なにか言いたくて、ひさびさに再会した彼女に声をかけたのだけど、
自分のことばがあまりに軽薄な気がして、いまだに胸につかえている。

温度さなのだろうか。
彼女の中で切実なものが、自分の中で燃えているんだろうか。
何事もなかったかのような日常に戻り、
言葉が、頭が・・先走りしていている。
考えている。つまり、動かず、止まっている。

その違和感と、モヤモヤ感・・・

・・・気づけたのだから、
また前へ進んでいこう。
少しずつ。




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