2011年3月14日月曜日

しばらくお休みします

いまだ被害の規模さえ、見当もつかない今のこの状況、しばらくブログはお休みします。 昨日の投稿に対して励ましのメールくれたかた、ありがとう。 発信したいこと、たくさんあるけど、今この状況の中で、自分にできる目の前のこと、優先したいとおもいます。
ラジオで被災地からのナマの声、日本だけでなく、世界じゅうのひとたちの思い、感じてます。 みんななにかしたいとおもってる。テレビから受け取った、ショックやつらい、悲しい涙とはまたちがう、なにか…自分も頑張らなきゃ…という気持になる、生の、人のいろんな感情が体温のように伝わってきました。
今被災地に行けなくても、時がきたらできることは必ずあるとおもいます。
こんな悲劇、犠牲を通してしか、人はひとつになってゆけないのだろうか…自分も含めて…と考えてるととても切ないですが、だからこそ、みんなで繋り、乗り越えていきましょう!
まずは自分が意識を研ぎ澄ませ、心身しっかりさせること。目の前の家族。そして近くにひとりぼっちで、つらい思いをしてるかたなどいませんか?
命をかけて救助してくれてる方々がいるように、政治家も報道も…専門家が専門家の使命を精一杯果たしてるのでしょう。そう信じてます。
昨日外国で日本人サッカー選手が、日本への思いを込めてゴールを決めたみたいに、歌手が励ましをこめてうたうように、それぞれ自分のできることがあるはず…直接救助とは違っても…
ときがくるまで、日常をしっかりおこないつつ…目の前のひとに"微笑む"だけでもちがうんだとおもいます。 14日 朝

2011年3月13日日曜日

まだ見当もつかない・・

東北で地震が発生して一日半・・
昨日の未明からは、長野県北部が震源の地震・・・

原子炉の一部が爆発しているというニュースは、とうとう・・という感じさえしている。
覚悟、という言葉は大げさかもしれないけど、小さな一、私自身のなかでも、
どういう生活をこれから選んでいくか、
もっと意識的に、考えて生きていかなければ、と思う。命がある限りは。

昨日は一日、最低限以外の電気を消した。
薪ストーブと併用していた、ファンヒーターやカーペットを消すと、確かにいつもより寒い。
でも服を足せばいい。湯たんぽを増やせばいい。
部屋の電気を消すと、最初は確かに見えにくい。
でも、ランプの光に慣れてくる。心も落ち着いてくる。

テレビはしばらくつけていた。
去年までは生活の中になかったテレビだが、先月、パソコンとともに生活の中に入ってっ来た。
今回、リアルタイムで、目の中にも、心の中にも、飛び込んでくる映像。
現実に体験しているわけではないけど、言葉をこえて、強烈にやって来る。
会見や、インタビューされている人達の表情から伝わってくるもの。
共振したり、何ができるか、どうなっているのか、目が離せなくなっている。

そうやって、電気をつかっている。
被災地では、本当に必要な場所で供給ができなくなってる電気を。

周辺の人達だけでなく、日本だけでなく、地球の生き物の存在を脅かす警告をはらんだ原子炉にも依存しながら。

このブログを書くことも、見ることもそう・・
私の心の「おしゃべり」は、いま、電気を使ってやるほど重要だろうか?

昨日はやめた。

長野が震源地だったことも重なって、昨日は未明から、夜まで遠親、親戚、友人・・国内外一日、電話の応対ととメールの返信。ここは被災地ではないのだけど、遠くの皆が思ってくれていること、とてもうれしい。有難いと思う。現実のものとは思えない東北の映像も、一人でなく、家族や、こうして、電話でも人と分かち合って、なんとか冷静に(は、なれなくても)日常を重ねて行けるのかもしれない。
口数少ない夫も、曾おじいさんのお墓があり、一度だけだが訪ねたことのある、南相馬の現状にかなりショックを受けていた。

テレビやネットのお蔭ではかれるコミュニケーション、IT生活。まさに、現代文明の進歩。
そして、今のところ、文明が発達する一方で、必要となる莫大な電力。

人類のたくさんの知恵が結晶して、築いてきた文明社会。
楽しみたいし、十分味わいたい。
でも時に、それは、自分自身の「感覚」や地球の「命」と引き換えるほど大切か立ち止まる必要もあると思う。
今まで体験したことのない、この高度な文明社会、いいも悪いも、体験しないとわからなかったのだ。

大地震、原発の事故。
こういうつらい経験でしか立ち止まれないのは。悲しいことだけど、
残されたものは、よりよい未来を残せるよう、少しづつでも、今自分にできることを、
無理なく続けていくしかないんだろう。


このブログも、発信することに何の意味があるのか、まだわからない。
こうして、書くことで自分の気持ちはすっきりしていくことはあっても、自己満足に終わるならば、紙に書けばいい。誰かのコメントを期待する心があるなら、手紙に書けばいい。不特定多数の人には無理だけど、それは、手紙じゃないし。

学校で教わって始メることにした、このブログ。
自分の中で、何かわかるまでは、書きたいから書く!
納得いくまでは、続けてみようと思う。発信してみようと思う。

2011年3月11日金曜日

見当がつかない

今日の地震の被害がどこまで広がるのか・・

松本でさえ、私には、初めて体験する長い大きな揺れだった。
まして、震源地に近かった人は・・・

何年か前、青森から三陸海岸沖を旅したとき、海岸に面した宿のご主人が、「ここは、いつか地震と津波でなくなる。自分は、子供の時体験した地震を忘れない。でも人は何も学んでいない。」といったのを思い出す。駅まで送って下さったが、発された言葉がとてもこわくて、同じ冬の青森の海とはいえ、日本海側とは違い、太平洋側は、ずいぶん穏やかなのに、どんよりとした暗いイメージで心に残ってしまっていた。

NZ地震が起きた時など、ふとその方のことを思い出したりしていた。
でも、誰が、今日、三陸沖でこんな大きな地震がおきる・・と思っただろうか・・・

地震を体験した人の、恐怖や不安・・見当もつかない・・

2011年3月10日木曜日

朝日

今日はちょうど家の前にある道の前から昇った。

林の中にある我が家は、夏の間は、繁る草木や緑の葉の隙間から昇る朝日を感じるだけだが、
広葉樹の葉が落ちた冬の間は、部屋の中から、太陽が昇ってくるのを拝める。
冬至の頃から比べると、ずいぶん北から昇って いる。

真っ暗で、雪に吸収されて音もない闇は、少しずつ変化して行く。
群青を紫に
白を桜色そして橙、
やがて黄金色に ・・
そして、太陽が昇った瞬間から訪れる、
すべてを輝かすゴールデンタイム。
わずかの時間だけど、世界を別世界に変える。

新しい一日の始まり。





2011年3月8日火曜日

まわりみち

たぶんこれは廻りみちの途中。

目の前の「課題」・・・行きたいところへすすめない。なんども失敗する。迷う。わからなくなる。
でもこうやってひとつづつ繰り返しながら、道を覚えてゆくしかないのだろう。

この一週間、松本までの往復も、何度も迷って、ようやくスムーズに行けるようになり、自分がどこにいるか、どこにいたかわかってきたところ。吹雪で視界が遮られた中、見当違いの方向へすすんでたこともあった。


その時は、なんだかわからない「点」もいつか「線」でつながり、世界が広がる。
自分自身の体験が刻まれた「点」。

地図も「課題」も、同じことだと、わかっていても、思うようにいかないことはイライラする。
わからないことにのみこまれそうになる。途方にくれる。
 でもそれもすべて、道を踏み固めるための大切なステップ。
知識と実践がちがうのは当たり前だもの。


…それにしても、まわりみち、で思い出しましたが、‘山麓線‘…最近工事中の回り道や、停止…多いですよネ…。地元の人にためにも、観光の人のためにも、安全な歩道をつくってもらいたいものです。

2011年3月7日月曜日

また・・

                      障子を開けると、雪・・・                               昨日の陽だまりが、嘘のような、冗談だったような・・・。

夜の間、降り積もった雪の上に、朝から、ぼたん雪が降りてくる。真冬と違って、水分を含んだ、重たい雪。舞い降りてくる、というよりは、落ちて来るといった感じに変わっている。

昨日、眩しいくらいの黄金色の花びらを、太陽に向けて開いていた福寿草も、また雪にうもれてしまっただろう。
車から、遠くまで見渡せた風景も、今日は一面「白」の世界。吹雪の中で、すべてに白いヴェールがかかる。

一見、枯れてしまったかのように見える、この時期のリンゴの木々も、実はその枝の中に、春をいっぱい詰め込んでいる。
以前、リンゴ農家さんが剪定のために落とした枝を、染色のために、もらって煮出したとき、灰色の化石のように見えたその枝からは、まだ姿も出していない新芽の黄緑と、甘いリンゴの香りがあふれ出した。

雪に覆われたリンゴの木々にも、桃や梨、杏子・・そして、その根っこを守る土の上にも、春の色がいっぱいに詰まっているのだろう。

2011年3月6日日曜日

ひなたぼっこ

                       この木に決めた!    
  
春のように暖かい休日。うちから池田の美術館まで、車で10分かからない。休憩、気分転換したいとき・・・よくここに来る。高瀬川をはさんで、うちとは反対側の高台にあり、北アルプスと安曇野市内がよく見渡せる。     

丘をのぼるとき、ちょっとだけ高原に行くような気分を味わえる。

子供の時、部屋のカレンダーがモンゴルの高原だったせいか、あの広々とした世界にあこがれた。「行きたい」と思った最初の異国だった。
大人になって夢がかない、ゲルで何日か居候させてもらい、想像以上に、広い世界を五感で体験した。
地平線のことを、あちらでは「天境線」という。
360度、空と大地がどこまでも広がる世界。

スケールは違うけど、熊本の草千里や、車山・・視界に遮るものがなくなる高原の世界は、なぜか海にいるときの感覚に似て、心がよろこぶ。

美術館の丘の上に寝転んで空を仰ぐ。
日差しは強くても、風はかなり強く、冷たい。  
目を閉じていると、風の音が体を駆け巡る。
遠い記憶がたくさん甦ってくる。

ふと目を開けると、有明山!そうだ、ここは安曇野!
木にもたれかかりながら、町を見下ろす。
大好きな場所や、大好きな人がたくさんいて・・・ しあわせだなあ・・ 

2011年3月5日土曜日

いってらっしゃい!

       22日にエベレスト8848メートルを目指してヒマラヤへ発つ、K氏の壮行会。
      アップリケの施された手縫いの旗に、皆の熱いメッセージが寄せられていく。

約2年前、8163メートルのマナスル峰に無酸素で登頂した後、すぐ、山小舎での私たちの結婚式で媒酌人をつとめてくれた。
還暦を過ぎての挑戦。
実直で、あたたかく、安心感のある、岩のような・・・
いかにも山男という感じだが、すごく繊細な方なんだなあという面を時々垣間見る。

8000メートルの世界なんて、想像もつかないけど、・・想像つかないくらいの、気力・体力 だけでなく、度胸と繊細さも必要なのだろう。
8100以上は、本人だって、はじめての世界・・いくつの壁を乗り越えてそこへ辿りつくのだろう。
そして、何が見えるんだろう。

見せてもらった計画書。2か月をかけて、ベースキャンプを移しながらのチョモランマへのアタック。

絶対、元気で帰ってきてくださいね!!皆、待ってますから!

2011年3月4日金曜日

凍り餅

朝ごはんの準備と、夜の準備、そして昼の弁当・・としていたら、また自分の分の御飯が足りなくなった。
そんな時は、お餅!食べやすく、お腹にたまるし、元気が出る。
朝、炭火でついでに焼いておいて、
昼、食べるときは、お湯かスープの中に入れると、あたたかく、美味しく頂ける。
・・が、今日は、暮れに皆で搗いたお餅も、頂いたお餅も、冷凍したものもすべてなくなっている。

は、と思い出した。そうだ!凍り餅があった!

私は、初めて信州で凍り餅を見た。そして食べた。
最初、甘いお湯に浮かべて出されたとき、餅だとは思わず、慣れない匂いに、美味しいというよりは、不思議な、変な味がした。

その後しばらくして、松川村にあるお餅屋さんを自転車で通った時、軒下に凍り餅がたくさんぶら下がっているのを見つけて、おもわず、立ち寄り、「これ、何なんですか?どうやったら美味しく、食べられるんですか?」
と尋ねた。

女主人は、「ちょっと待ってな」と台所へ行き、「説明するより、見て、食べた方が早いでね。」と注文もしていないのに、手順を説明し、食べさせてくれた。
美味しかったこと!
ちょっとしたコツでうまく焼けた餅は、時間がたっても硬くならない。
忙しい田植えの時期などは、食事代わりのおやつ、だったそうだ。
彼女は子供の頃、帰ったら、お風呂を沸かす役があてられていたそうで、お腹すきながら、薪に火が付く間、そのまま凍り餅をかじるのが好きだったと話していた。

凍り餅の匂いは。変な匂いでなく、住んでみて分かった。冬のあの凍てつく空気の匂いなのだ。

あの日以来、いろいろお世話になっているお餅屋さんの凍り餅、自家米で手作業、元気な夫婦の
気合も入っていて、今朝のように、困ったとき、山登りの時、非常に重宝するのだ。

今日も朝つくったものを、お昼に頂いて、還ってくるまで元気で過ごせた。

和紙から)外したら、5分ほど水につける。
そして、少し油をひいたフライパンで片面蒸し焼き、
蓋を取り、ひっくり返してもう反面を焼く。
なかがトロリとしたら完成
すぐ海苔で巻く

2011年3月2日水曜日

七色の時間

昨日の夕方から降っていたみぞれの様な雪が、うっすらとあたりに積もり、どんよりとした朝。
とつぜん、部屋が明るくなる。
雲の晴れ間から太陽が出たのだ。
太陽の光で溶けて、できた雫が、七色に光る。
あたりに、ダイヤモンドをまき散らしたみたいに、あちこちがキラキラ光りながらゆれている。

明るい空からは、また雪が降り出して、光に照らされながら降りてくる。
一面が、輝く七色の時間。

出かけるときには、すっかり降りやみ、またどんより空に戻っていた。
去年、入口に植えたもみじは、この冬を無事に越して、しっかり芽をつけている。
北アルプスは雲の中だったが、有明山はふたたび雪化粧をして、美しくそびえたっていた。

2011年3月1日火曜日

新しい日々

今日からまた新しい日々が始まる。
新しい道、新しい場所、新しい人・・・

知らないから、不安だし、迷うし、緊張する。
そして、未知のものに、わくわくする。

昨日まで知らなかった「人」と出会えるよろこび。

知っていると思ってた「人」と、新たに「出会える」こともある。
自分が変わるからなのか、相手が変わるからなのか、わからないけど、
お互い、多面になりながら、成長しているということなのだろう。
関わりや親しみが深まっていくよろこび。

全く未知のものと出会うときは、とても感覚が研ぎ澄まされるけど、
慣れている日常の中にある、新しいこと 大切にしたいな。
毎日出会う人にも、出来事にも、風景にも・・。

生きている間、毎日は、毎瞬間は、未知の可能性に満ちたものだから。