2011年5月29日日曜日

落葉掻き

「落葉掻き」って聞くと、普通は晩秋を思うだろうが、
この時期に聞くと「ああ~、今年もいよいよ夏が来るんだな~。」って感じる。

それは夏の小屋開け前の、登山道の「落葉掻き」だから。


雪が解けてようやく、雪の下に積もっていた落葉を掃える。


雨の中、予定通り決行された作業。
入り口付近とはいえ、
久々の登りに、汗なのか雨なのかわからないくらいビチョビチョになったけど、
山独特の空気、匂い・・
一歩一歩慎重に踏みしめながら、心がうきうきしているのを静めてゆく。

霧の切れ間に時々見える遠い山の雪渓、
新緑の中で、鮮やかに開いているツツジ、シャクナゲ、イワカガミ・・
雨は冷たいし、掻く前の落葉に足を滑らせたりもするのだけど、
そんなふうに緊張したり、出会う風景に感動したりしながら、
自然のなかで、自分自身の感覚を取り戻していけるからだろうか、
僅かな時間でも山に入ると、心地よい疲れと爽快感が味わえる。

雪の重みでとれた、看板もなおして。

私の手伝えたのは、今日のわずかな時間だけど、
この山を大切にする人がいて、
常に意識を、手をかけて、
たくさんの人に
長い時間かけて守られてきて、
人の登れる道が存在し続けられるのだろう。

当たり前のように通る道も当たり前でない。
ありがたいことだなあ・・

「登山道」だけでなく、「日常」も、
当たり前でない、人の手によって守られて、今の生活があるのだろう。

2011年5月26日木曜日

晴天の日

天気が崩れる前に、借りている畑の手入れができてホッとしている。
                        

赤、白、黄色のお花畑だった畑も、色が褪せ、花から種へと、命の場を移している。
心地よい風は、どこまでいのちを運んでいくのだろう。

借りたトラクターを運転する夫はとても嬉しそうである。

主の方が、年季の入ったトラクターを二人がかりで整備してくださっていた。
初めて乗ったときは、見ている方まで、おっかなびっくりだったけど、
今年は、使い方にも慣れてきたのか、すっかり愛着が湧いている様子。

                         
可愛いし・・・。
煙突が前についていて、一見小さな機関車みたいだ。
この時代の形は、シンプルで、なんだかあたたかい感じで、心が和む。

一日中、爺や鹿島、白馬の山々も見えていた。


私は草刈り担当。
初めて機械の使い方を教わった。
慣れるとさすがに機械は早い。

まだ紅いクローバーは、背も高く大変だった。
夏野菜の苗を植えたところに伏せて、肥料になってもらった。
来年はピンクのクローバーがこの通路には生えてくる予定だ。

「タイヘンクセのある」草刈り機は、途中で機嫌を損ねたため、使用を断念。
私にはまだ付き合い方がよくわからない。
でもずいぶん活躍してくれて、へなちょこな私の手は豆だらけ。

 
トラクターを返した帰りに、池田の丘の上まで上がってみた。
安曇野に散らばる水田を、夕日が鏡のように反射させていた。

2011年5月22日日曜日

藤見会

私の通った小学校には、校門を入ってすぐのところに藤棚があった。
毎年花の咲く初夏が来ると、全校生徒がクラスごとに出し物をして、
他の生徒や、保護者が藤棚の下で観劇をする習わしがあった。
OBたちも見に来ていた記憶がある。

秋には、花も終わり、スカスカになった同じ棚の下で、中秋の名月、
月見会が行われた。

何年生の時だったか忘れたけど、
私もギリシア神話の中の神様の一人という設定で、
シーツを頭だけくり抜いて、腰をひもで巻いてとめたような恰好をして
藤棚より一段高い舞台、つまり運動場なのだけどに立って、
少ない台詞を発したことを覚えている。

衣装を着て人前に立つ、
緊張と、ちょっと誇らしげな気持ち、よろこび、
そして心地よい初夏の風・・

先日、近くのお寺の満開の藤を見た時に、ふと蘇えった。



それからしばらくたっても藤の匂いと、とその頃の自分の気持ちの余韻が残っている。

先生や友人たちとのたくさんの思い出の中には、何処にも季節感がさりげなく織込まれている。
学ぶよろこび、
表現してゆくよろこび、
今の自分の土台になっている多くのものは、
あの小中学校で、愛情いっぱいの中で、育まれたものかもしれないなあ・・・、と、
「玄界灘に渡る風」に思いを馳せている。

2011年5月20日金曜日

ご褒美

真夏日となった、本日。
ようやく休みをとれた旦那さまと、依頼の庭木の剪定に出動。
機械を使ったり、ちょっと専門的なことになると私では対処できない。

たくさん汗をかいた、
一日のご褒美は・・
一緒に見るこの夕焼け・・

一日として、同じはないなあ・・
疲れとか、頭の中のごちゃごちゃはどっかへ消えてしまう。


夕日も空も
影絵のような有明山も、夕焼け色のアルプスも
その色のまま
田んぼの中に入っちゃう。
放心してる自分自身も・・・。

お、もちろん、身体へのご褒美も、腕によりをかけました、私なりに。

2011年5月19日木曜日

80代女子

最近、心さわやかにしてくれるのがご近所の80代女子の方々。

どちらからも草刈りなどの庭の手入れを頼まれているのだが、
顔を見ること自体がとても楽しみ。
それはどちらもとても素敵な「笑顔」だからだと思う。
そしてさりげなく感じる「思いやり」。

どちらもご主人を亡くされて、おひとりで生活されている。
人はいろいろ集っているが、
他人に寄り掛かる姿勢は見せず、
ひとりは凛と、
ひとりはおおらかに、
そしてどちらも、穏やかに、淡々と生活されている。

笑顔の感じは全く違うけど、
どちらの笑顔も、
少女のようにな部分があって、
でも少女のそれとは違う、
いろんな体験や年月を重ねた人だけが見せる様な、
そぎ落とされた、静かな透明感が漂っている。
一緒に笑うと、とても暖かい幸せな気持ちになる。

主人のお母さんも80代女子。
やはりとても笑顔の素敵な方で、
初めて穂高の駅であった時、一目惚れしてしまった。

長野まで九州から2度も会いに来てくれた80代女子は、
茶目っ気たっぷりで、時々洒落た葉書を送ってくれる。
この人のユーモアが大好きだ。


この方々の笑顔をつくっている人生の中には
どんな時代が詰まっていたんだろう。
今はなくなってしまった、
自分を律することが当然だったところから、にじみ出てくる「美」もあると思う。

今もよく思い出す私の「ばあちゃん」は生きていれば90代女子。
豪快でおもしろい、懐の大きな人だった。

自身のオーラを全く消すように「神様の道具」に徹してたマザーテレサは100代かしら。

私を安曇野に根付かせた、
デイサービスで会った90代女子は、
死んだ「ばあちゃん」に似ていて、
この春、90代でこの世に別れを告げた。

90代は80代よりも骨が太く、腹が据わってる感じがする。
それも時代だろうか。
それぞれ死んでなお存在感がある。
それもかなり強く。


80代、90代になってみなければわからないこともいっぱいあるだろう。
つらく悲しい体験もたくさんあったからあんなに透明なんだろうか。

私たちは何十年か先、あんなに可愛く微笑めるだろうか。
微笑めるように、今をしっかり生きよう。

今日も、
ともに今を生きる80代女子の、その笑顔に元気が出た。

2011年5月15日日曜日

大根の種

頼まれている草刈と、借りている畑が2か所。
日差しを見ながら、うちと外を行ったり来たり・・。

道すがら、水の張られた田んぼには残雪の北アルプスが鏡のように映り、
今、山麓近辺でも、あちこちで田植えが行われている。

庭も畑も、たった半日でもその伸びがわかるくらい、
草木も一気に春と夏を謳歌している。


大根を抜かずにいたら、雨の後の日差しで、畑というよりお花畑になっている。
種取するかなあ・・とつい、みとれて毎日そのままにしてしまう。


友人がうちの畑で花束をつくってくれた。
そして・・
それは鑑賞だけでなく・・
蕾は味噌汁に浮かべて、花は飾りに添えて・・・
そして、種はアドバイス通り、そのまま食べて、美味しかった。
採り立てだからこそだろうが、甘くて、しゃきしゃきしててエンドウみたい。
かすかな大根の香りがした。

きっと種とりする前に・・つまんで・・
しばらく胃袋の中に大根の種がいっぱい蒔かれそうな予感。

2011年5月14日土曜日

もみじ

                うちの玄関のもみじは春・秋と2回紅葉する。

真紅という言葉がぴったりの柔らかい枝まで燃えるような芽吹きが、
太陽に近いてっぺんから始まって、橙に、そして茶から黄色になり、
これから新緑の黄緑、そして緑になる。

今、てっぺんが刻々と黄緑に変わっていくところ。
下はだいぶん褪せたがまだ紅い。

不思議だなあ・・・と思うけど、考えたら「紅葉は秋」なんて、
もみじが決めたわけではなく、
人間が決めたことで、
自然の営みに無駄はなく、神秘に満ちていて、もっとダイナミックで、、測り知れるものではないのだろう。

…とか言って、改良種だったりしないよなあ・・・

2011年5月12日木曜日

雨音

よく降るなあ・・

沢がすぐそばを流れるうちの家は常に雨が降っているような音が流れていて、晴れた日でも「雨?」・・って勘違いしてしまうけど、この3日間はホンモノ。
外に出している修理中のトタンやシート、枝に葉っぱに、いろんなところで雨の音楽。
沢は増水で止まったけど、また流れ出した。
雪解け水が混ざっていてとても冷たい。



先月植えた和歌山クレソンもすっかり根付いていた。
枕ほどの大きさの小さなクレソン島・・ほかの草木をそのままにしたくて。


紫に咲き誇っていたショウジョウバカマは、いつ赤く変化してその花の命を種に伝えたのだろう。
その後ろには、いつの間にかもうイワカガミ色の世界が広がっていた。

雨に打たれて身をかがめている感じだったけど、光が当たると一気に輝きだすんだろうな。
登山道で出会う花だと思ってたこの花が家に自生しているのを発見したときは感動した。
それとも、うちもやまってことか?


そして、完全に忘れ去られていた・・・椎茸・・
巨大化してしまったけどサルより先に気が付いてよかった!

箱一杯とれた。
早速バター炒めで頂く

そして再来年に向けて菌を打った。
雨音を聴きながら。

2011年5月11日水曜日

かける

                       昨日も今日も一日雨・・

                    外仕事を安心して休養できる。
               蒔いた種も十分吸収してくれてるといいな。


家を出たら、ちょうど新しくできた信号機に名札をかけるところだった。

絶妙なタイミングで見れた、そして撮れた、名前をかけるところ。
家では旦那サマがかけていた。

鳥の巣箱。
今年はここから巣立ってくれるといいな・・

2011年5月9日月曜日

かんじょう

久しぶりにオペラを鑑賞した。

人の心って本当にいろんな面をもっている、というのは日々自分にも他人にも感じるところだが、
言葉や音は、時空を超えて、個々の心に響いてくる。

純粋さ・・その清らかさ、美しさ、エネルギーの強さに胸打たれるし、一方でそれは自身を見失うほどの狂気や悲劇のもとを秘めている。
男と女、親と子、自と他・・・目線の違いは、「想い」はあっても、すれ違い、感情を、ドラマを生む。
人はそうやって、思いもかけない自身の感情に出会い、おののいたり、逃げたり、向き合ったり、受け入れたりしながら・・・
心を土器の様なものにたとえるなら、粘土のように揉み解したりながら、自分の器をつくり続けていくのだろうか。

10代の頃友人の父が、「人生は一つの物事でも、生きていくほど多面になるってことだよ。」ってしみじみ言っていたのを、その方の彩とともに、亡くなった今もときどき思う。


こちらは、先日美術館で行われた、朗読と現代音楽。
古民家の中に、長さや厚みの違うガラス板をたらし、手製の木琴棒で高低を変えて響かせる。
民家の中は、全くの異空間になる。
作家や表現者の想いが、聴き手の心の中にいろんな情景を映し出す。


私たちの不思議な心の空間も同じだと思う。
日々湧きおこるいろんな感情・・
どう向き合い、消化し、そして昇華し、何を発信するのか・・
他人の空間は立ち入れないし、変えられないけど、自分の空間は自由にどんなにも変えられる。
確かに、宇宙で変えることができるのは自分の心のだけなのかもしれない。

そして一人一人が、たった一つしかないこの地球のこと、自分自身のように感じられたら、きっと大きく変わっていくんだろう。

浜岡原発の停止は、ホッとしたけれど、原発に携わっている人の生活だってある。この複雑な経済の仕組みの上に成り立っていた、これまでの生活の意識はそんなに簡単には変わらないだろう。

本当に「ここからが始まり」・・
ひとりひとりが問われると思う。
何を選んでいくか、
何を大事に生きていくか


昨日の雨上がりの朝、季節だけでなく、何か流れや風が新しく大きく変わっている気がした。
きっとよりより良き方向へ、

私も、自分自身の心の、この不思議な空間が、
悲しみや怒り、苦しい「感情」にどっぷりつかることがあるとしても、
十分浸った後は、少し離して「かんじょう」に変えて、
多面に見れる眼を養いながら、
自分自身の中のより良き方向を模索したい。
嬉しさやよろこびも同じように。

きっと自分だけの感情を、味わいながら、深めながら、心の奥の方にあるしづかなところへ降りていき、この空間から、安らぎや平安を発信し続けたい。

2011年5月7日土曜日

「春」野菜

友人がこれまでの私の状態を見かねてか、
借りている畑に不憫を感じてか、
これからの春野菜の種を準備してくれた。

今年こそ!(・・て、もうかなり出遅れてるけど)
 
去年通路に蒔いた緑肥は、真っ赤に咲いた花が緑に映えて美しいし、
すでに長靴の高さになっていて、踏み込めない時点で通路ではなくなってる。

大根の薄紫、野沢菜の黄色、忘れな草の空色や真っ白のハーブの花・・
作業を忘れつい見入ってしまう。
松本一本ネギは次の命がもう今にもはち切れそう。


久しぶりに鍬を持つ。
ふかふかの土からたくさんの生き物たちが慌てて逃げ出す。
彼らの生活の場に進出させてもらう。

種を土にそっとのせる。
土と種は一つになるのか、
きっと芽を出す・・
不思議だなあとあらためて思う。
つくづくおもう。

一粒一粒、
芽を出してくれるのかな、
天気どうかな・・
種蒔きは祈りの様な作業だと思う。

余裕なくなってくるとキリキリ機械みたくなってしまうけど、私は。

想いと手があわさって、淡々と、無駄な動きなく作業している人の姿は美しい。
時々そういうお百姓さんの姿を見る。

皆でやると楽しい。

今日はひとりだけど、
土に触れ、心身落ち着いてゆく静かなよろこび・・。

親切な、友人の指導メモ書きを確認しながら、大根などを植えた。



あ~、先は長い、やっと訪れた「春」は短い・・


2011年5月2日月曜日

警告ランプ

車でオイルの不足など、警告ランプが教えてくれる。
誰も警告ランプに文句を言ったりしない。お知らせに気が付けばオイルを補充する。

身体の痛みもこのランプと同じ。
身体の不具合、ひいては生き方の不具合をメッセージ的に教えてくれているらしい。
痛みは日常や予定をストップさせてしまうので「ああ!もう!」とつい、なってしまうのだが、
いやがおうにもストップさせてくれるから、立ち止まれる。身を振り返れる。

今回ランプがついて、急ぎすぎ、焦りすぎてたなって感じた。
ランプに気が付かなきゃ、もっと突き進んでたかもしれない。
自分の思いが強くなりすぎて、身体とのバランス、まわりとのバランス、崩れそうだったのかもしれない。
身体は正直だなあ・・。ありがたいなあ、と思う。


雨が続き、昨晩はアルプス降ろしか、高い木々に守られたうちの家でさえ、強風に。ベランダのトタンはどこかへ連れて行かれ、今朝から捜索中。
風や雨に打たれながら新芽はぐんぐん成長している。
木々だけでなく草花も・・

玄関の水仙、一日の様子。

 朝8時、出かける前。

 13時、帰宅時。先端が、今にも・・・

 15時、再び外出時。おお~、ひらくぅ・・・

17時帰宅時、開いた花びらが、夕日を浴びている。


物言わぬ植物は、想いと身体とがバラバラになるなんてことはないんだろうな。
自然のリズムのままに、開くべき時に開くのだろう。