2011年12月3日土曜日


1年ぶりの海は、夕凪。

何日かたってもまだ、
くりかえす波の音や、きらめきは、
心の奥底に静けさを漂わせている。

2011年11月20日日曜日

雨の日の軽トラック。

荷台にどっしり積んである薪が下せなくなり、
運転席は
人も、犬も、荷物も、いっぱいで、
フロントガラスは拭いても拭いても・・・くもりっぱなし。


前が見えない、
そんなときってある。

そんな時は晴れた日のように遠くを見ようとしないで、

足元を見直してゆく、
いっぱいの荷物を減らしていけばいい。


フロントガラスには、落ちてきた紅葉が終日くっついていた。

2011年11月8日火曜日

立冬

今日は天気予報の予告通り、少し冷え込んだ。

昨日までの雨で、またずいぶん葉っぱが散ってしまった。
木々に残る黄色い葉と、路上に落ちた黄色い葉は、今のところ同じくらいだろうか。


土の上が好きなカイは、丸まって寝ていると、枯葉に埋もれて、どこにいるかわからなくなる。

動いていてもわかりにくいかな。

明日はいよいよマイナスの予測が出ていた。
いよいよ冬がやって来る。

2011年11月6日日曜日

秋雨

今年は玄関先の有明もみじはあまり色づかず、そしてこの雨でずいぶん散っている。
舞い落ちる時に蜘蛛の糸にくっついた紅葉が、空中でタペストリーみたいになっていた。


リンゴは雨に洗われひかっている。
これからもっともっと鮮やかさと甘みを増してゆくのだろう。
か?


うちのまわりでは、この時期にまだ蚊が飛んでいる。
まだ霜も降りない。

「暖冬」という言葉が聞こえてくると、
ありがたい様な、心配なよう困惑した気持ちになる。

2011年11月4日金曜日

朝霧

今年はずいぶん暖かいけれど、それでも秋が深まってくると、天気のいい日は霧につつまれる。
部屋の窓から、木立の中を霧が上がってくるのが見える。


山麓から里へ下るにつれ、霧は深くなり、看板や信号は近くまで行かないと見えないほど。


先日、雲海の上で見た真っ赤な太陽は、
今日は、雲海の下で、まさに白い影のように静かに光を放っていた。

霧が晴れると青空。

ずっと行けなかった畑におそるおそる行くと、
腐らずにいてくれた野菜たち。








人参も大根ももっと手をかけて間引きしてあげれば、大きく成長して本来のいのちを全うできたろうにと思うと、申し訳なさでいっぱいになるけど、
その鮮やかな色と生命力に勇気づけられた。


2011年11月1日火曜日

いろ

何か月ぶりだろう。
「きもちいい」とか「きれい」とか・・・
ようやく自分の中に いろ(色彩)が戻ってきた。

何を見ても、聴いても、
どこか遠い世界のようで、心身に、感じられなかった。
自身の影ばかりに気を取られて、

閉じていたんだと思う。


カイに夜中に起こされたお蔭で、
いろんな人に支えてもらったお蔭で、
時も来て、

瞬く星空
朝が燃えはじめる あのいろ

そして静寂
静謐な空気

全身に感じることができた。

やっとまたゆったり歩きはじめられる気がしている。

2011年9月15日木曜日

見つかりました!

保護されていた先で、今朝、カイと再会、無事家に戻ってきました。
行方不明になっていた3週間・・・長かった・・・。

チラシを見た方からの声が、励みにも、見つかる手掛かりにもなりました。
こころよく置いてくださったり、貼ってくださったり、
断られたりもありましたが、
見ず知らずの方が配ってくださったり、
たくさんの人に助けて頂きました。ありがとうございました。

ブログの方はお休みしてましたが、
更新されてないことで、カイの安否を気遣われてた方々もいたことを知り、
この場を借りて報告とお礼を申し上げます。

ご心配おかけしました。
カイはとても元気です。
(保護先でもずいぶん大切にしてもらっていたのだと思います。)

ありがとうございました。

2011年8月2日火曜日

菅谷氏の講演

昨晩、豊科の公民館ホールにて、安曇野市の特別講演会として行われた。
医師であり、現・松本市長。
タイトルは「放射能から学ぶ  ~今、市民にできること」


チェルノブイリで医療活動を行っていた彼が、最初にスライドで見せた写真。


ベラルーシの豊かな大地。
一面の緑、遠くにみえる森、その向こうの水平線・・
美しい写真だ。
そしてここは「立ち入り禁止区域」
25年経った今でもそうである。


10年前にベラルーシから戻ったときはこの写真に「汚染大地」と名付けて講演したそうだが、
倉庫にしまっていた写真をまたこうして講演することになろうとは思ってもいなかった、
これは「汚染大地」だが、今や日本は「汚染列島」になってしまった、と
医師であり政治家である彼の言葉には説得力があった。

「日本は汚染国になってしまった」という現実を真正面から受け入れる姿勢をもって、相互に支えあうべきである。と。



社会主義国であった25年前のソ連でさえ、2週間後には作成公表できた汚染マップ(リアルだった)を
爆発から5か月近くたって、いまだ国が公表しないのは、おかしい、
だから対策が後手後手にまわり、取り返しのつかないことになっている、という彼の発言から、
「いのち」や「未来」が後回しにされているやり方が、よく垣間見えた気がして、恐ろしくなった。

チェルノブイリの汚染被害は25年経っても進行中だし、
内部被ばくについては、
子供たちに十字架をせおわせつつも
まだわからないことだらけなのだ。

まして、今回、いまだ実態も公開されず、
「稲わら」に限らない、食物連鎖の土壌すべてに降り注いだ雨。
負の連鎖はどこまで続くのだろう。
時間をかけて「いのち」を徹底的におびやかす。


時が経てば復興できる「自然災害」と、
「原子力災害・核災害」というのは全く別のものである、ことがあらためてよくわかった。


「僕は脅かすつもりはありません、事実だけを言います。」と前置きされた講演は、
中身は厳しい現実だが、わかりやすく、熱い語り口で、あっという間の1時間だった。

市民からの質問は、個人的で具体的なことが多く、
そんなことをここで聞かなくても・・と思ったりもしたが、皆それぞれ切実なのが伝わってきた。
こういう「不安」が加速し暴走すると怖いとも感じた。


子供や妊婦のいのちはさることながら、
年をとっても、誰にとってもたった一つのいのち。
そして人も、植物や動物のいのちを頂き、生きている、
他のいのちに、生かされている。

「自分」だけが助かっても、「住んでいる地域」だけが助かっても、日本だけが助かっても、
仕方がない。
下を向いて考えているだけでも仕方がない。

「汚染列島」から立ち直っていくために、
たくさんの「いのち」が共存し、生まれてくることができる地に戻るために、
みなで「方法」を模索してゆくしかないのだろうが・・・・・・どうやって?

気が遠くなりそうな作業・・
個人個人だけでなく、これは「人類」に突き付けれられているテーマなのだ。
そう思ったら、ちょっとラクになった。

2011年7月31日日曜日

梅雨が明けたというのに、青空をちっとも見ない。

林の中で、沢のそばの我が家は、これまでにない湿度に覆われている。
朝晩は冷気と湿気を飛ばすために薪ストーブが燃えている。


湿気に心も覆われないように、
せめて目から心へ「涼」を。
割れたグラスを、夫が風鈴にしてくれた。




自作のグラスに、写真をカーテンフックにつけただけだけど、
心地よい金属音が鳴る。
沈みがちな心を、ふと気づかせてくれそうな、
引き上げてくれそうな高い音。




草刈先のお庭から、頂いたバラの花は、
色も香りも、一瞬別世界へ連れて行ってくれる。

停滞しそうな気持に、
「香り」や「音」は意外な扉を開けてくれる。
そして親しい会話や笑いは元気、元の気に戻してくれる。

2011年7月14日木曜日

おかえり!

2年ぶりにカイが戻ってきた。


ほとんど耳が聞こえなくなったカイは、すぐそばをとおる獣にも気が付かない。
沢の音も聞こえないらしく、以前のように吠えることも怯えることもない。
瞳も毛も、輝きが失せ、白くなり、犬も年を取るんンだ・・と当たり前のことに最初はショックだった。



帰ってきた日の晩は、稲光と落雷で、
さすがに聞こえなくても感じるようで震えていた。
なでていると、なつかしいカイの匂い、呼吸、感触。

激しい雷鳴に、ブレーカーも落ちて、
夫とカイと3人で、怯えて身を寄せてた時間の、
何ともいえない静けさと安らぎはふしぎだった。

カイ、帰ってきてくれてありがとう。
最後まで一緒にいさせてね。
またカイとの散歩が始まる。

2011年7月12日火曜日

梅雨明け

    先週末、突然梅雨が明け、まぶしいくらい鮮やかな夏山が一気に顔を出している。



「おいでヨ!」と言わんばかりに・・

そうはいっても、ままならない日常があるので、仕事の前に眺めるだけでも・・。
私たちはよく、朝食を外で(「外食」でなく「アウトドア」で。)食べる。



朝霧は山の表情を刻々と変えていく。
朝日が朝の空気を連れてくる。



身体はここにあるんだけれど、心と目線は稜線に奪われていく。
梅雨明けの光り輝く山。

私たちにとって3回目の夏。

2011年7月6日水曜日

惜別感無量

昭和5年、SL蒸気機関車の初代が、引退になったとき、当時の会社の社長が、惜しんでその汽車に刻んだ言葉。

「惜別感無量」・・・いかに、その汽車を、時間と手間をかけて愛おしんでいたかが伝わってくる。



夫は、丸20年乗ってた車を
(まだまだ働いてくれているのだけど)
車検を機に、仕事の都合で軽トラックに変えることにした。

家族も荷物も、いろんなところへ無事に運んでくれた車。
彼を、この土地、信州まで連れてきた車。


本人は別れを惜しむ間もなく、仕事に追われていると思っていたが、
「最後の最後まで、現場のシートを支えて守ってくれていたんだ。」
という言葉に、長年の愛車への信頼と愛情を感じた。
次に乗ってくれる人のところでも、大事にされるといいな。


手続きの間、小麦畑で風に吹かれて、待ちながら、、
「惜別感無量」という言葉がインパクトをもって、新鮮に感じるくらい、
私たちの時代は「モノ」を大事にできなくなっているんだな・・としみじみ思った。
使い捨ての対極にあるもの。


大事にしていこう。
新しいトラックも。
手にしているモノも。
これから手にするモノも。
もっと、もっと・・。



2011年7月3日日曜日

大豆種蒔き


畑は、トマトや胡瓜の黄色、トウガラシの白、ジャガイモの紫・・夏色の花が満開。


隣の小麦畑は、あっという間に刈り取られて、風景が変わった。
もう一方も、菜の花を、ちょうど今日、刈り取っていた。
菜種油をつくるのだ。


大きな機械に子供がちょこんと二人入って、袋からこぼれないように手伝っているのが、
かわいらしかった。


機械は早いなあ・・と感心しながら、大豆を植えていく。
今年は、枝豆だけでなく、味噌作り用まで収穫できますように・・・


友人の田んぼでは、合鴨がずいぶん大きくなっていた。
見ているだけでも心地よい初夏の風景・・・

2011年6月28日火曜日

ミヤマオダマキ

一番好きな花。

開田高原に住んでいたころ、山の散歩道で花の蕾を見つけ、
どんな花が咲くんだろうと、毎朝楽しみにしていた。

びっくりした。
初めてこの花を見た私には奇想天外な形だった。
何人かの人に尋ねて、初めてその名前を知った。



あの時に、決めた。
私の人生は「オダマキ」。
今は、自分が想像するよりはるかに面白いってこと!


よそのおうちに、コスモスのように、たくさん咲いていたオダマキを見たときは、
腰を抜かしそうになったが、
私が知らなかっただけで、庭によくあるオダマキ。
このあたりも「深山(ミヤマ)」ではないけれど、よく見かける。

私が好きなのを知って、この春、自分の家のオダマキを、近所の方が移植してくれた。
初めて、庭で見るオダマキ。
ありがたいような、申し訳ないような・・・




もうじき梅雨が明ける。

2011年6月18日土曜日

祝の島

夕べ寝つけず、起き上がっても、頭も身体もボーとしている。
こんな時は散歩!
道路から少し入れば、そこは自然のなか・・
意識まで連れて、狭く暗いところに沈んでいきそうな心身は、
全く別の風に洗われて、しゃっきりと本来のところへ戻ってくる。
自然の力はすごいと思う。
博多にいるとき、それは私にとって「海」だったけど、
ここではそれは、「木々」そして「沢」。



昨日、映画「祝り島(ほうりのしま)」を見た。

コタツだんらんツアーと銘打たれた「出前上映会」。
商業ベースの波に乗らない映画館がどんどんなくなっていく現在、
本当に見たい映画、見せたい映画・・小規模でも、「映画」という一つの媒体を通して、
顔の見える範囲でつながっていく。
本来の姿かもしれない。、
これからの時代の一つのヒントだなと思う。


映画はとてもよかった。
山口県、瀬戸内海に浮かぶ小さな島。
いつか、飛行機の窓から、ハートの形がかわいくて、写真を撮ったことがある。

対岸4キロのところに、原発建設計画が持ち上がったのが、約30年前。
28年間反対し続けている、祝島に住む人たちの日常を、
笑いあり涙ありで、
ほのぼのと、
でもずっしりと胸にくる、島のひとの「ことば」を
美しい風景に包み込んで、
ドキュメンタリーとして撮っている。


「わしらの代で海は売れん。」


海と山に恩恵を受けて、大きくなって、生きてきたこと、
次の代に残していかなければいけないこと、
身の丈を知ること、


彼らにとっては、わざわざ、口にするほどのことでない、当たり前のことなのだろうが、
それぞれが、その人間にしか発っせない言葉で語る。

自分を育ててくれたの島の自然を守るために、
この女性監督を通して、何かを伝えるために。


何年も前、施設建設の是非を問う投票の時、


「あんたたちは金だけじゃろが・・。」とつぶやいた女性。

「自分たちは命を懸けて反対しとる。
あんたたちは命を懸けて賛成しとるのか?」と訴えた男性。


福島の原発の事故が起きた今となって、この言葉の重さは大きくのしかかる。


「誰かに言われたからじゃなく、本気で(島を守ろうと)やっているから、28年続いとる。
みんなそうだと思う。」
「人と人の関係が壊れてしまった心の傷が一番つらい。
それはこの土地にいきてたものにしかわからん。
賛成の人も反対の人も、両方傷ついた。でも、人間だから心の奥はみんな同じだと思う。
いつか元に戻れるといい・・。」

映画を通して、静かに、でも正面から、私たちに何を選択するべきかを問われている気がした。

祝島(いわいしま)は山口県の島の名前だけど、
ホントは日本列島が、
いや、地球そのものが、ほうりのしま、
私たちは、大自然のなかで、
生活している場所の上に
その一部として生かされている。
他の生き物たちとともに。

2011年6月14日火曜日

花吹雪

梅雨の晴れ間・・

部屋の中では、沢の音と雨の音の区別がつかなくて、
窓からエゴの花がポタポタと落ちているのを見て、
また今日もずいぶん降っているんだなと思っていた。

エゴの花は、今年は咲くのが例年より遅かったのに、
例年よりずいぶん早く梅雨が来て、
満開と同時に大雨で、青空のもと開ききった姿を満足に見せることなく、
重そうな濡れ姿のまま、花がポタポタと落ちていく。


階段は通るたびに掃いても掃いても花で埋まってしまう。
家の周りは白い絨毯。
まさに花道、踏むのは忍びないけど、ぐるりと一周できるほどだ。




車の上にもワイパーにも積もった花を乗せたまま運転すると、
木々から降ってくる花花・・
ワイパーから舞い上がる花花・・
初夏の花吹雪。

2011年6月13日月曜日

桐箪笥

主人は古いものが好きだ。

結婚当初、家の中には、古い箪笥や机、糸車、織機・・いろんなものが溢れていた。
古い手づくりのものは、あじがあって私も好きだけど、
生かされずごちゃこちゃあるのは重苦しくて、
必要な人に引き取ってもらったりして
今はずいぶん整理されてきた。


主人の先輩が、お母さんの使ってた桐箪笥を使わないか、と連絡をくれた。
もう置き場所がないよなあ・・と話していたものの、
「使わなきゃ、燃やしちゃう」という言葉に、
「それは箪笥がかわいそう!」と、私たちに火がついて見せてもらいに行く。


信州の家は、蔵が大きい。
冬が長いことも理由の一つにあるのだろう。
歴史の古いそちらのお宅も、風情ある大きな蔵は2階建てで、十分住めるスペースがある。
梁に書かれている先祖の名前・・・
100年前とは近いような、遠いような・・・

そして箪笥がうちにやってきた。



尊敬する山岳写真家・「田淵行男」さんの縁で知り合った先輩でもあり、
田淵氏がその敷地に住んでいた時にもあった箪笥なんだ、と主人は大変な喜びよう。

磨き上げ、ひまし油を塗り(私のマッサージ用だったのだが)、補修作業。
一本も鉄の釘が使われておらず、木でつくられた釘が打ちこんである。
壊れたところは、ちょうど木の釘と爪楊枝が同じサイズで代用。

鍛冶屋さんなどほとんど見ない現代、すべてが職人の手づくり。
今のような「使い捨て」の感覚などなかった、
「大事に」ものと使っていた、生かすことが当たり前であっただろう時代に触れる。

結局、玄関先を整理したら、見事ジャストサイズで収まった。
大事に使わせていただきたい。

2011年6月12日日曜日

甘い香り

家を囲むように生えているエゴノキが一気に満開になり、家中どこにいても甘い香りがする。

遠くからだといい匂いだけど、
直接、鼻を花に近づけると、かなり強烈だ。
多種の蜂がやってくるのもわかる。
この雨で、その枝は、満開の花と、新緑の葉は重さを支えきれず、柳のようにしなっている。
ずいぶん花が落ちてしまい、至る所が白い花の絨毯になっている。

近くの道路は、アカシアの白い花が満開。
運転していても、甘い香りがたちこめてくる。


宅急便が、3つ同時に香りを届けてくれた。

土佐の河内晩柑。
博多の能古島の甘夏。
和歌山の梅と西瓜。

それぞれの果物の、それぞれの発する匂いを味わいながらとても幸せな、豊かな気持ちになった。
送り主や、その地のことを想いながら。

そして、つくづく気候の違いを感じた。

畑のいちごを、今日も小動物に先を越されぬよう、もいで頂く。
甘酸っぱいこの香りが、この地の、この年の、初夏の香りなんだな。
これから、モモ、そしてブドウ、リンゴ・・・甘い、走り抜けるような季節がやってくる。

2011年6月9日木曜日

日常

二、三日前までまだ色づいてなかったのに、
この湿気と陽気であっという間に真っ赤になった畑のイチゴ。
留守中に、友人が植えてくれた畑のイチゴは、冬ごとに少しずつ範囲を広げて、
夏の到来を予告し、
私たちの目と舌をよろこばせてくれる。


吹雪で登頂はできなかったものの、8700メートルから、無事下山してきたKさん、
何も生息していない、冷たく、美しく、過酷な氷の世界。
酸素をつけて、命がけで登る。
一呼吸一呼吸は日常のものとは全く違ったことだろう。
変わらぬ彼の笑顔にホッとする。


被災地へ、信州から、医療の仕事や、ボランティアで言って帰ってきた人たちの話を聞いた。

テントで46泊してがれきの撤去などを行ってきた男性。
帰りに寄ったどこかの公園で、
「生まれた初めてだったけど、カエルの鳴いている声が全身に沁みこんでくるように感じた。
後から考えると、多分、「泥」と「がれき」しかない「死」の世界にずっといたからだとおもう。
「生きている」ってことを全身で感じたんじゃないか。」

陸前高田へ行った女性は、
「満潮時間になると道路が水没してしまう。
人間のつくったものが、すべて流されて何にも残ってないんです。
な~んにも。
安曇野に帰って、その風景を見て、なんてきれいなんだろうと思った。
全く別の時間が流れていると思った。
「あたりまえ」と思っていた日常が「あたりまえ」でないとおもった、
感謝するようになった。」

エベレストの氷の世界も、
被災地のことも、
体験した人にしかわからない、
行った人にしかわからない。

でも彼らの話を通して、
あらためて
「日常」や「あたりまえ」という言葉は存在するけど、
ほんとうはそうではない、

この世界の
そして
私たちのいのちの
あやうさとはかなさ、

・・にもかかわらず、

あたりまえのように「生きている」こと、

「生かされている」こと
そのすごさと尊さを感じた。








2011年6月5日日曜日

海の色

一日どんよりとした灰色の空。
湿度も温度も増して、半日の間に窓の外に見えるエゴの花が開いてきた。
開くと、家のまわりを清楚な白い花で飾ってくれることだろう。

新緑も、梅雨空の下で輝きを失って見える頃、母が送ってくれた玄界灘のお魚。


初夏の海を飛び跳ねていたのだろう、トビウオの青は海の色そのものに感じる。

浜辺から、船の上から、
あるいは海面に浮かんで、見た海原、
見た、という言葉はあんまりしっくりこないな、
波の音、匂い、水温、身体で感じる、思い出せる海の感覚。

自分の呼吸だけが聴こえる海の中・・
何度夕陽が海に沈むのを追いかけたことか。
満月が映る海を見に、または潜りに行ったことか・・。

梅雨で玄界灘もどんよりと時化ているのだろうが、
魚が海そのものを連れてきてくれたように感じた。



2011年6月4日土曜日

コカリナ演奏会

昨晩、穂高の旧図書館で行われた。


16年前、阪神大震災直後、人々の心を癒したいと淡路島へ、駆けつけたミュージシャン、
あのような状況の中では「頑張ってください」とか「大丈夫」とか、どんな言葉も届かないことが身に染みた。
ふと、ハンガリーから持ち帰った木の笛で「浜辺の歌」をふいた。
そしたら・・たくさんの人が目に涙を浮かべ、「震災後初めて泣きました」とおっしゃった方もいたという。
その時をきっかけに改良を重ね、できたのが木の笛、コカリナ。
なんとも
身近で素朴な音がする。


今回もたびたびコンサートをされていたという被災地を、2度慰問しての、写真を携えてのチャリティーコンサートだった。
津波にあった石巻の子供たちが「津波」は嫌いだけど、『海』は好きだといっていた、という話が胸に残った。すごいなあと思った。
浜辺の歌をみんなで歌った。


安曇野は13公演目。一公演ごと、主催地の人にこうやって手作りタペストリーを1枚ずつ、作ってもらい、つなげて、100公演で大きな旗にして被災地に届けるそうだ。
以前東北で主催されてた親しい方は、いまだ見つかってないらしい。

全国の人々の手と手、心と心が、
それは直接的なものでもなく、目に見えるものではないけど、
深いところを支えあえる大きなつながりになって広がっていくことを願う。