2011年4月28日木曜日

サクラサク

ようやくうちのまわりの桜も、満開。
桜咲く頃に、ジャガイモの植え付けができるよう、種イモ(ホントは昨年の食用だったけど、芽が出てしまった「キタアカリ」)を適当に切って、薪ストーブの灰をつけて干しておいた。

友人から分けてもらった「アンデス」と合わせて一気に植える。
去年植えた野沢菜や大根、カブの花も一気に開花。菜の花畑になっていた。

甲高い声に振り向くと、キジ。
去年も隣の菜の花畑から現れた。


菜の花が一気に刈られ、茂みがなくなったらどこで生活するんだろう・・と気になっていたが、大きなお世話だったようだ。しばらく様子をうかがい、こちらがしゃがむと、雉もしゃがむ(そんな習性は聞いたことないけど)遊ばれた後、また菜の花畑に消えて行った。




有明山神社の神楽殿の天井絵。

8年に一度という、地区の当番が回ってきて、昨日は終日大祭のお手伝いだった。
女衆はほとんど直会の準備・片づけだったが、はじめて出会う地区のお姉さま方と、濃い、楽しい時間を過ごさせて頂いた。
ご近所の「キフジンの会」にも誘って頂いたが、「キは‘貴‘じゃなくて‘奇‘の方よ~」とずっと爆笑続きだった。


有明山神社は、天の岩戸が開いて、扉がここに飛んできたことから、昔は「ハナレトノジンジャ」と呼ばれていたと、始まりのあいさつで宮司さんがおっしゃっていた。
天照大神に扉を開けさせた神話の三神が祭ってあるが、八意思兼命(知恵)、手力雄命(力)、天鈿女命(喜ばせ癒す力)が、これからの時代、明るく生きていくために必要ではないかと言われたのが心に残った。
神社内にも、天岩戸がまさに開いたところが木で彫ってあるが、まさに昨日の直会は、あの賑やかさ加減に、「何が起こってるんだろう」と開いたんじゃないかな・・・扉。



待ち時間の間、お正月の時にしか開かないという神楽殿が解放されていて、はじめて中に入った。
松や岩などの自然の色で描かれた天井絵。
なんともやさしい色。
何気ない花鳥風月を愛でる心は、時代が変わっても変わらないんだなあと、改めてなんだかほっとした。

誰もいない異次元の空間。
コロンと寝転がってひとつひとつの絵を見ていた。
開け放たれた戸から眩しいくらいの木々の緑。
心地よい風が部屋を、時代を、空間を吹き抜ける。
そして私は今を生きている!

大祭にふさわしく境内は桜が満開を迎えようとしていた。

2011年4月23日土曜日

蕾たち

胃痛で2日間寝込んだ。

たった2日の間に山麓線の桜は開花し、風景が全く変わっていてびっくりした。
中房線も開通。
それに合わせていたのか、新しい信号機まで、この2日の間に設置されていて、桜と信号機に、ちょっとしたウラシマタロウ気分になった。
リンゴの新芽たちも、脱皮のように太陽に向かって出てきている。炎みたいだ。
去年ここで見た桜は、4月の雪がお布団のようにつもり、翌日気の毒な位重みで花のついた枝が折れて散乱していた。桜も予定外だったんだろうな・・。
今年は雪は・・今のところは(油断してはいけない)ないけど・・なぜか1本「飾ってください」とばかりに蕾を付けた枝が落ちていた。

高い木々に囲まれたうちの家でも、風景が日々驚くように変化していく、色づいていく。
家のシンボルでもある玄関の有明もみじはもうすでに枝も葉も赤い。木全体が赤い。
このもみじは、春と秋、2回紅葉する。

おととし主人の実家から送られてきた水仙は、しっかりこの地に根づき、勢力をひろげ、今年もときを待っている。
1日で10センチくらい伸びた。成長期の子供のようだ。

家のまわりにたくさん植えてあるエゴの木。
初めてこの家に来たとき、真っ白な花で私を迎えてくれた。
花が散ると、雪が積もっているようになる。
あと1か月もすれば今年もこころよろこばせてくれるかな・・・

2011年4月19日火曜日

髪結いの友人の亭主



天気のいい日曜日、ようやく休みになった夫は、なんと4か月ぶりに髪を切ってもらった。
家の河原のそばで青空床屋。
まさに髪結いの・・友人の、・・亭主。
お蔭様でさっぱり、すっきり。

自主上映の「ガイアシンフォニー七番」は「すべての命が 潔く健やかに生き続けるために」というテーマ。
震災が起き、いろんなことをより深く考える、いま、このタイミングで観れて、深く心に入ってきた。
美しいもの・・・目に見えるもの、耳に入って来るもの、だけでなく・・人の心、想い、ふかい意識に触れられてよかった。
「私達の魂の内奥に眠っている‘生かされている‘という体感が甦ることを願っています。」という監督のメッセージ。

松本城は桜が満開だった。



2011年4月17日日曜日

「僕たちの見たチェルノブイリ」

松商学園の高校放送部が1996年<最後の夏休み>に原発事故から10年経ったベラルーシを訪問した時の記録の本である。
 
大町山岳博物館の古書コーナーで売っていて思わず購入、一気に読んだ。

何年か前にこの本を読んでいてもどこか「対岸の火事」だったかもしれない。
「マイクロシーベルト」なんて言う単語も日常何度も耳にするようになった現在、当時の高校生のみずみずしい感性と、おそらくみんなで試行錯誤して、それぞれの個性を存分に引き出しあいながら、「伝える」ためにつくられたこの本・・遠い美しい村に起こった出来事が、恐怖も悲しみもよろこびも、彼らの目線を通してとてもリアルに伝わってきた。

「私たち高校生に何ができるか」と、彼らが考え、多くの人にチェルノブイリ原発事故問題を知ってもらうために作った本。
彼らが「見た」もの、彼らが「出会った」もの、そして彼らが、「考えた」ことが詰まっている。

その問いは、15年経って色褪せることなく、逆に彼らの体験が、現状を知らない私たちへの大きな示唆となり、「私たち生き残った日本人が何を選択していくか」という更に強い問いになっている気がする。

その国と村に住む人たちは原発の恩恵を受けていたわけではないのに、原発事故で、風によって運ばれた放射性物質の多くはベラルーシ共和国に落とされた。
そして政府によって高汚染地とされた村の住民はすべて強制移住させられ、今も家や学校がそのまま残っている。高校生たちの見たそれらの村は、「自然がすごくきれいで感激。でも学校も家もあるのにだれも住んでいない。ホントに誰もいないんです。見た目は普通なのに放射性測定器は高い数値を出してドキドキした。」
10年経って、100キロ以上離れた村でさえ、放射能の濃度が通常の20~30倍あり、20分しか滞在を許されない。
こういう状態の、誰も住めなくなった村を「埋葬の村」というのだそうだが、誰も手入れをしていないリンゴ畑に、たくさんのリンゴがなっている。もちろん汚染されていて食べることなどできない。

ベラルーシの首都ミンスクはチェルノブイリから約300キロ離れたところにある。
ちょうど福島第一原発と松本や安曇野との距離である。

10年経って事故の汚染地区の子供に甲状腺がんが多発していることが確認される。
ミンスクの国立がんセンターでボランティアで働く日本人医師をこの高校生らは訪ねる。
100%治る見込みはない、笑う力も失ってしまった子供の患者との対面は胸が詰まる。
(笑顔の子もいる)。
ここで働く医師との出会いは、この本の鍵でもあり、高校生に大きな影響を与えたようだ。

私も彼らの目線を通して伝わる、その医師の姿、言葉、言動にとても感銘を受けた。
彼は今、何をしているのだろう・・とネットで名前を検索してみたら、私は読み方さえ間違っていたが、なんと現・松本市長だった。
そういえば写真で見たことのある顔だなあ・・と思っていた。
最近のニュースで「チェルノブイリを訪れたことのある市長は・・」と言っていたのは訪問でなく、5年半の無償医療滞在の本人だったわけだ。
知らなかった私に驚かれる方も多いかもしれないが、知らなかった。

それで定例会見などでの彼の発言を初めて、ネットで動画で見てみた。
今回の事故についても、興味深い発言をしている。
政治家としての彼のことは全く知らないけど、こういう志を持った人が市の長というのは、とても心強いことではないだろうか。


松本にあり、地道な活動をずっと続けているチェルノブイリ基金は今回の震災でも、いち早く、病院と連携して南相馬の病院に入っている。
1か月が経つ前に、もう3回目の隊が入った。南相馬の現状は刻々と変わっているようだ。
なにか手伝えることはないかと以前メールしたが、忙しいさなかにも、誠実な、すばやい対応。
友人は「現地に行けない代わりに義援金を」とこちらの団体に振り込んだら、確認とお礼のハガキがすぐ届いたとのこと。「今度から、こういう手間はいりませんって一筆添えなきゃいけないね」と彼女は言っていたが、その心配りに感嘆し合った。
全体と細部に対するそういう感覚は、きっと支援先でも生かされているのだろう。


「原子力は未来に残すべき、莫大な力と可能性を秘めたものだと思うけど、残念ながら今回の事故で人間にはまだそれを制御する力はないんだと分かった。」となじみの松本の古本屋さんの店主は繰り返し言っていた。
確かに原子力自体には、いいも悪いもないただのエネルギーなのだろう。
ただしやはり、それを扱う人間に、自分自身も含めて、高い意識が育ってないんだと思う。
「みんなのために、未来のために」という意識でなく「自分だけが、今だけが」という意識で、政治や経済が流れた結果こうなっているのだから。

でももう誰かのせいにしたり、誰かが変えてくれるだろうと依存してる余裕は、もうないのだと思う。
あまりに大きな犠牲が払われ、今なお終息どころかまだ犠牲が、広がっている状態。
でもこれはまだ未来に向けて立ち直れる最後のチャンスかもしれない。
ひとりひとりが、かけがえのない「今、ここ」の自分を、精一杯大事に生きながらも、「今、ここの自分」を超えて、今と未来をつないでいけたらと思う。
古代から高い精神性を養い続けた日本人だからこそ、皆で、世界の先駆けとして乗り越えて行けると思う。
亡くなった人、まだショックや、悲しみ、怒りの真っただ中で辛い思いをしている人たちのためにも、周りは乗り越える力をつけていかなくちゃ。
なんでもいいんだと思う、自分の本当に好きなこと、できること・・・小さなこと、愛すること、大切にすること、人も、ものも。
意識が変わればすべてはよき方向へ変わっていけると信じている。

畑には春が来ている。
高校生の体験した、埋葬村の美しい自然を思いながら、人間だけでなく、植物、動物への物言わぬ命のきらめきを想う。



2011年4月15日金曜日

夏日

「今日は25度以上もあって、穂高は夏日でした」とニュースで言っていた。

確かに昨日まで、遠目からは枯れ木のように見えた山麓線沿いの梅の木々は、一気に色づいた。
里の桜はほころんで、午後には景色が変わってしまって驚いた。
草抜きに通っているお宅の杏の花も開いた。
春がやって来た。

                        隣の大町へ。
                 鹿島槍の獅子は少し溶けて太って見える。
                 山も、今日は人を寄せ付けない厳しい表情は消え、
                 急に春山になった感じだ。


山岳博物館の付属園

ここでは傷ついたり、病気になったり、何かの原因で野生に戻れない動物たちを保護し、飼育している。数は少ないけど、どの動物にも名前が付けられ、特徴が書かれ、一匹一匹がとても大切にされているのがわかる。
動物園では、時々、檻に入れられた動物の死んだような目にあって悲しい気持ちになることもあるが、ここの動物はどこか人懐っこく、ちかく感じる。
そうなるまでに時間や愛情がたくさんかかっているのだろうし、今日は特に暖かいので、皆くつろぎモードだったのかもしれないが。

カモシカの、澄んだまなざし(ま、じっと見つめるのが鹿の特徴だけど)、角、ひずめ、の美しさ・・
ほれぼれ見入ってしまった。


西丸震也記念館へ久々に立ち寄る。
居矢里高原のハナノキの開花はまだ少し早い、と店主に聞いて今日はやめにした。
20年前の西丸氏の講演の録音を聴かせてくれたが、
あの震災を、直接ではないにせよ体験した今は、言葉がよりリアルに頭でなく、身体に響いてくる。

ここではようやく庭先のフキノトウが開きかけていて、わずかの距離でも安曇野との寒暖の差を感じたが、
日当たりのよい窓越しにはアゲハの幼虫が今か今かと「とき」を待っていた。

店主も「あれ?飛んじゃったかなあ・・」と見間違うほど、葉っぱより葉っぱっぽい・・。
 そしてさなぎから蝶へ・・
こんな大変化、人間だったらびっくりですよね。
でもそのくらいの大変化を、本来の思春期の心は遂げるんだと
故・河合隼雄さんはおっしゃってました。

店主が特別にアトリエも案内してくださいました。

ふすまに書かれたその絵はとても懐かしく、ちょっとおっかなく・・
「土みたいですね」と言ったら「サンドアートです」と言われてしまった。
まさに原始感覚・・
この著名な作家さんのことも、アートの世界もよく知らないけど、
とても「いい!」空間だった。



2011年4月14日木曜日

ひかる川

太陽はずいぶん北の方から昇るようになった。
最近は、窓から見える川の真上から上がってくる。
夏になるともっと北へ行って、緑も繁り、家からは見えなくなる。
冬から春の、毎朝の日の出は家で一番の楽しみ、よろこび。

太陽が橙色に昇る時、川も燃えるように橙色に流れる。
太陽が、橙から金色に変わると、川も金色にキラキラしぶきをはじく。


今日も快晴。日差しはかなり強い。

和歌山の友人が河原で摘んで送ってくれたクレソン、根っこを伸ばしてとっておいた。
河原の、ショウジョウバカマから少し離して植えてみた。
暖かい紀州から、信州の雪解け水は沁みるだろうな・・。
でも、ここを気に入って、根付いてくれるといいな。

今日も有明山がよく見えた。
大好きな有明山を見ているとなぜか心が落ち着く。
そのどっしりした、美しい姿だけでなく、
山の中に、周りに、麓に、たくさん思い出も詰まってるから。
そしてこうして日々、山を見ながらいろんな想いを重ねているから。
雪が解けたらまた登ろう!

2011年4月12日火曜日

ウララ

そんな言葉がぴったりの春の陽気。

風は冷たいけど、北アルプスがあまりにきれいで、
草抜きの帰りに、山もよく見えるわさび田へ寄ってみた。


駐車場には放映中の「おひさま」のセット。
語り部役の若尾文子がやっているお蕎麦屋さんという設定のようだ。

ここから見える常念もずいぶん溶けてきている。


ベタな場所でベタな一枚だけど、やはりここで、透明な水のせせらぎを聴きながら、
ほほえましい道祖神、水車、遠くのアルプスを見ていると、「いいなあ・・」とつい撮ってしまう。
もうじき桜が咲くと、また風景は一変するだろう。


今は梅!今や盛りの山葵の白い花と一緒に咲き誇り、その香りはわさび田全体を包んでいる。


光を浴び、その白さは、アルプスの残雪と同じくらい眩しい。

うららかな春の日・・
でも、目に映る世界も、心の平安も、永遠ではなく一瞬で消え去ってしまう・・
どうしても今回の地震や津波、そして人災のことが同時によぎる。

でもだからこそこの輝く今を精一杯味わって生きよう、って思う。

2011年4月11日月曜日

三月に入って近所の方の庭の手入れを頼まれている。

先月は、山麓のウチには雪が残っていても、穂高川近くのこのあたりまで里に下りてくると、雪がなく暖かいことに驚くことがよくあった。
同じ穂高でも気温も天気も全く違う。

高い木に囲まれた林の中を過ぎると、空は大きく広がり、安曇平、東山が見渡せる。
そしてここまで来ると、有明山も北アルプスもよく見える。
私にとっては、春の太陽を存分に浴びる、ひなたぼっこでもある。

庭先のフキノトウを見つけて、この家の主と春の到来をよろこんだのは何週間くらい前だろうか。
今は日ごとにいろんな蕾が膨らんがり、花びらが開いていく。
何も色がなかったところに突如現れる「いろ」は本当に鮮やかに感じる。
里は今あちこちで梅が満開。この香も格別だ。




こちらのお庭で、初めて見る蕾もたくさんあって、どんな色や形が出て来るのかとても楽しみだ。



でも・・・抜かなきゃいけない「雑草」なんだけど、私はこの草たちが大好き。
とてもホッとする。
子供の頃から、大人になっても、
博多でも東京でも東北でも、都会の雑踏にも畑にも
いつも存在してくれていた。
オオイヌノフグリはきらきらひかる星に見える。
見つけるといつもなぜか心が躍る。
ナズナ、ホトケノザ、ハコベ、タンポポ・・

夕方から風は強く冷たくなり、
花々を照らしていた光は隠れ暗くなってしまった。
そして家に帰ると、また雪・・

避難所や自宅に避難してる人達、寒いだろうな・・
今年の春の寒さは特に厳しく感じてしまう。

震災から1か月

パソコンが生活の中に入り、最近、動画サイトの存在を知った。
今日は、南相馬市の市長の訴えを見た、聴いた。
淡々と事実を語るその口調に、悲しみ、怒り・・、
そして切実な現状を改めて感じた。
どういう方はよく存じ上げない。
が、以前のテレビの電話インタビューの時もそうだったが、
この方の訴えには、こちらの胸に詰まるものと、
怒りの対象は国や機関に向けられていても、
それらを否定せず、信じて闘っている態度に、何かジンとくるものがあって、
私自身の動きにも影響を与えている。

あの「雑草」たちが生き生きと生繁げられる地に復活してほしいと願う。

2011年4月10日日曜日

猩々袴

「ショウジョウバカマ」と読む。ユリ科。

遊びに来た母娘が、「紫の花がいっぱい咲いてるよ~。」と教えてくれた。

ん?いつの間に?もうそんな季節なんだ・・
手をひかれ(小っちゃくて可愛い4歳の手に)、
案内してもらった(ウチだけど)。

ちょっと見えにくいけど、めしべが先に突き出て開いた後おしべが花粉を出す。
6枚の花びらを付けた花がいくつか集まって、こんなふうに咲く。

花が終わる時、紫のこの花は、なんと赤くなる。
それを中国の想像上の動物、「猩猩」の赤い髪の毛に見立ててついた名前らしい。
日本では「能」の中に出てくる。
葉が袴ということか。

しかし、この葉はスゴイ。
地にくっついた葉の先に芽をつけて、増えていくのだ。

種だけに頼らずに。
植物の体験と知恵、人間には思いもよらない発想、その結果の多様性、繋がっていく命・・

庭先の花、一輪にも測り知れない叡智がある。

すべての命がその上に存在している大地、
時に猛威を振るい私たちを震撼させるけど、
長い長い目で見たとき、
大きな大きな目で見たとき、
この母なる大地は
人間の傲慢さや浅はかさも包み込みながら
大きく命を慈しみ育んでいるんだと信じている。

2011年4月9日土曜日

花芽

畑を見に行く。
この辺りは梅も咲き始めたし、爺が岳の「種まき爺さん」は姿を現したり隠したりしている。
そろそろ種蒔きの時期なのかなあ・・

初めて冬を越した畑。
ネギ・OK、小麦・ボチボチ、玉ねぎ・消滅・・?、通路に蒔いた緑肥は写真のように目に鮮やか。

秋に大根、赤かぶ、白かぶ、ほうれん草、野沢菜、雪菜・・いろいろ蒔いたが 薪く時期が遅かったため大きくなる前に霜で成長が止まってしまった。
可愛い(愛おしいというより、サイズが!)野菜たち、できるだけ収穫したかったんだけど、年末の忙しさで十分できないまま雪が積もってしまった。

しかも野沢菜と赤かぶの区別がつかず、野沢菜のカブを取って、葉を土に返してしまったという、ど素人っぷり。野沢菜カブも、まあまあおいしかったが(自分が手をかけたものは何でも美味しい)、友人にはさんざん笑われ、野沢菜にも失礼なことをしてしまった。

でも、咲いてた!大根、かぶ、野沢菜・・
取り残した花芽!



松川の農家の方に、この花芽をおひたしにするのが「旨いじ!」と教えてもらった。
この時期、5回くらいは収穫できるらしい。
茹でたての見本までもらった。辛子醤油がとても合う。

今放射能で規制のかかっている地域では、この摘み菜ができなくて、出荷を見合わせているらしい。ようやく春が来たのに、育てたものの命を全うさせてあげられないということ、作り手はその悲しみや怒りをどこへ向ければいいのだろう。命をどう継いで行けばいいのだろう。
長野県内のほうれん草だって「暫定規定値以下」というだけでヨウ素やセシウムは検出されている。
空間放射線の「健康に問題はない」の発表と同じ。
人間が決めた線とは関係なく、確実に原発事故の影響は広がっている。


花束くらいになるまでちぎって、花が咲いているものは飾りに、蕾のものはおひたしにしてみた。
少しほろ苦くて柔らかい春の味だった。

2011年4月8日金曜日

雪解け



休止してたブログ、また再開しようと思う。

震災から1か月近く過ぎているが、まだ全体の状況は見えてこない。
余震も、原発も、人の心も、まだまだ不安定のままだ。
何をしていても、ふと意識は被災地にとんでいる。


山形から、気仙沼に炊き出しに行った友人の言葉。
「一か月経って、支援に疲れた企業がどんどん撤収し始めて、近隣で手助けに行ってる。
避難勧告でててもさ~、東北の人は土地に愛情があるからさ~、なかなか離れられないんだよねえ・・。
でも地元の高校生たちが復興させるって頑張ってるのを見たらさあ~。」
客観的にあの水没した町の映像を思うと、何とも胸が詰まるが、育った場所や思い出のある場所への愛情や執着は、東北の人だけじゃないと思う。


宮城の高台住む、津波の被害はなかった、と言う友人は、10日後に電気、最近ようやく水道が普及して元の生活に戻りつつあるといっている。
やっと通行が解除になり入った、自宅から2キロ下は壊滅状態だったと言っていた。
還暦も過ぎ、いろんな人生体験をしている彼が「全部流された義妹の家の残骸が2キロ位流されたところにあって、何か探そうとするんだけど、独特の空気と匂いでなあ・・・」
次の日は寝込んだと言っていた。



安曇野はここ何日か晴天が続き、青空に残雪のアルプスの稜線が突き立ってウソみたいに美しい。
まだ冬季通行止めの中房線、ゲートを抜け、久しぶりに歩いてみた。


春の匂い。
雪解けの中房川、いつもより音を大きく感じる。
まだ人の気配のない有明山の表参道口は、獣の気配そして雪と一緒に落ちてきた土砂、石。
まだ寝起きのようによろよろ動いてる虫もいた。
春のさえずり。
新芽に触ってみる、枯れ木のような枝から春を待つそれぞれの新芽は柔らかくて命そのもの。

忘れてたなあ・・こういう感覚。
車やパソコンや、文明の利器のスピードはスゴイし、いっぱい恩恵を受けて私にも、今があるんだけど、
春風を受けて、一歩一歩、歩くたびに甦る、この自分のリズム、感覚・・


「母なる大地、父なる空」とnative americanは自然を畏れ敬っていた。
古代の日本人もそう。
登山道の沢に足をつけて(長靴です)、顔を洗った。沢の勢いは激しく、その水は甘くておいしかった。
まだ雪を残すグレイの世界の春山も、これから一気に芽吹きがやって来る。

フランスの神学者の言葉、「人類は初めから終わりまで皆で一枚の布を織っている。生きているときは自分がどこの部分かわからないが」
私は何か信仰の対象を持っているわけではないけど、いつも思い出す、この言葉。
きっと、それは人類だけでなく・・
そう思ったら、目に入る木々たちもぐっと近くに感じた。

自分にとっての、その日の心の中のきらめきを発信できたらと思う。