2012年6月1日金曜日

「今私たちに何ができるか」

3・11の後、みんな、何かしたいと思っている。
被災地に向けて。
被災した人たちに対して。

でも実際、自分の住んでいる場所で、
具体的にどんな支援ができるのか、何が必要とされているのか、
わからないままの人も多い。
私もその一人だ。

松本の市民活動サポートセンターで行われた、
「福島原発事故を受けて、今私たちに何ができるか」
対談とワークショップの2部形式で行われた。

対談は
NPO法人日本チェルノブイリ連帯基金事務局長 神谷さだ子氏(右)、と
手をつなぐ3・11信州代表 森永敦子氏(左)。


松本に事務局を置く、チェルノブイリ基金、
長年にわたるチェルノブイリへの支援だけでなく、
今回の震災の時の対応も、私の知る限り、最も迅速で、ピンポイントの救命行動を行っていた
団体の一つだと思う。
事故後すぐ、立ち入り禁止だった南相馬の病院に、諏訪病院の医師たちと入られたときは、ほんとうに感動した。


チェルノブイリから戻ったばかりという、代表の神谷さんは、
「子供相手のボランティアのつもりで入ってから26年・・・ということは、
チェルノブイリの事故から26年。でもまさか、日本でこういうことが起こるとは当時思っても見なかった。」
というところから、地震当日から、事故、これまでの経過をお話しされた。




「手をつなぐ3・11」は長野県内に避難移住してきた当事者のネットワーク。
代表の森永さんも、福島から、白馬、そして松本へ移り、
現在、松本市寿小赤に、古民家を借りて活動拠点とし、
避難者の孤立防止、地域支援情報の提供・発信、保養プログラムの企画運営等々、
精力的に活躍しておられる。



彼女の解説。
福島県の地図に色付けされているのは、
福島県内の小学校で計った放射線量。
まさに、同心円状でなく、風の道が見えるし、ホットスポットがあることがわかる。
沿岸部が抜け落ちているのは、原発がある場所。
立ち入り禁止で測定不能。


森永さんから聞く、震災、事故当時の話、
そして今の現状・・
淡々と、明るく、わかりやすく、客観的に話す彼女の口ぶりに、
かえって、どれだけの絶望や怒りや悲しみを乗り越えてこられたのだろうと、
始終涙が湧いてしまった。
でも、つらいだけの涙じゃなくて、
人はこんなふうに優しく、強くなれるんだっていう、感動のようなものも混じっていた。



「除染された」と公表される学校も、表面の砂を剥ぎ取って、その砂は後者の片隅に、
黒ビニールを張って置いたまま、子供たちは校庭に出ている、という事実。

外で遊ぶことや、食べるものに常に不安を抱える母親たちも、
根拠のない「大丈夫です」と、「復興」のスローガンに、考えることをやめ始めているという事実。

事故以降、福島で病死した子供の数は1.5倍になっているらしい。
鼻血だけでなく、免疫力の低下は、何度も風邪をひいたり、湿疹、原因不明の病気を招いているが、医者が放射能と直接関連付けることはない。

そして一番深刻なのが、口から、食べ物として入り続けることによる内部被ばく・・・。
祖父母の作った野菜を食べないと、「だから風評被害が起こる」といわれ、
野菜を差し替えて子供に与えているお母さんたちもいるらしい。
そのストレスは・・と思うと、ほんとうに苦しくなる。




これは、対談を聞いた後、班に分かれて感想や意見を言い合ったものを
森永さんが、白板に書き取っていった記録。


被災地から避難された方、支援に行った方、親戚・友人が住んでいる方、
いままでは縁もゆかりもなかった方・・
それぞれの全く違う3・11体験から、
私たちの班も5人でいろいろお話しさせて頂いた。


印象的だったのは、一人の女性。
福島の親戚や友人を訪ねたそうだ。
「語弊があるかもしれないけど、子どもがいるお母さんたちはまだいい、
子どもを守る、パワーで動ける。
でも私が会ったのは、その地域から諸事情で動けない人たち。
20代の女の子たちが、『どうせ私たちは子供は産めないから』って・・絶望的に笑ってた。
おじさんたちも、『俺たちはどうせ国のモルモットだから』って・・。」
そう話す彼女からも漂うやりきれない絶望感が、私たちの胸を突く。

優先されるべきは、赤ん坊や子供であったとしても、
どんな命も粗末にされていいはずはない。



自然災害からの復興は時間とともにできる。
でもこの人的災害からの復興はあるのだろうか・・
時間とともに災害が目に見えてくるのだ。
だからこそ、動くべきは、動けるのは、
当事者でなく、
客観的な事実を見渡せる、その周りの私たちではなかろうか。



「いのちを後回しにする復興」なんて・・・
という森永さんの言葉が胸に残る。


わたしたちに、いま、ここで、できること、
少しづつでも、継続的に、ずっとできること、
それぞれがそれぞれの関わりの中で感じたことから始めていくしかない。

私も、昨日の出会いやお話の中で、少しづつ見えてきた気がしている。







2 件のコメント:

  1. いろいろ反響届いてます。

    原発事故による避難者は松本市内だけでも270人(関東圏からも含む)だそうです。

    原因となった「原発」に関して森永さんは、単になくせ、といういうことでなく、
    何故その地域の人たちが原発で働かなければいけなくなったか(都市に人口集中する前は、皆、地域で暮らせていた。)
    つまり「なぜこうなったか」「どうやったら(原発依存している人たちが)生き残れるか」を考える必要があると言っておられました。

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