人間の「いのち」は 葉っぱの先にのっかっている「露」のようなものだ、
・・・と友人は言った。
彼の妻、私の大好きな友人は、今その露が落ちそうになっている。
医者が患者の「いのち」の時間を宣告しようとも、
だれにも
「いのち」そのものには触れられない。
このところ、身近だった友だちのいのちが、「雫」となって落ち、
海に、空に、還っていった。
たぶん「水」が巡るように
私たちのいのちも、肉体は消えても、
肉体でない「何か」は、永遠のなかにあるのだろう。
いつか私も、みんなそこへゆく。
そう思いたい。
心の奥のずっと深いところで、
私たちの「露」も、肉体が消えた「雫」もつながっているんだ、と信じたい。
安曇平によく似ている・・といつも思う筑後平野。
耳納連山は、東山や、北アルプスの前山のよう。
筑後川、犀川、名前は違えど大きな川の周りに広がる一面の稲穂の海。
大好きな大好きな友人の身体は、とてもつらそうだった。
何もしてあげられない。
立ちすくむしかないのだけど、
なぜか友人の姿は、とてもきれいに輝いて見えた。
生きているひとりひとりにある、いのちの、「露」のきらめき。
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